種子島
九州の南端、鹿児島県佐多岬から南に43キロに位置する種子島は、南北に57.5キロ、東西に5~12キロ、周囲166キロ、北北東から南南西に伸びた細長い島です。
最高地点が282メートルとなだらかな地形で、西海岸は大半が砂浜と低い丘陵続きで、景勝地は東海岸に集中します。平均気温が20度と温暖な亜熱帯性の気候に恵まれた緑豊かな島です。
人口約3.6万人、比較的平坦な耕地にも恵まれ、農業がこの地域の中核となっていて、古くから日本本土と琉球、中国、東南アジア、西欧を海の道で結ぶ交易の接点として重要な役割を果たしてきました。
鉄砲伝来
種子島は、昔から遭難船だけでなく、じつに多くの文化を漂着させていました。1543年8月中旬、中国広州を出国した明国船は、ポルトガル人3名を乗せて東へ向かいます。ところが不運にも台風にもまれながら琉球列島を北上しましたが、島ごとに明人倭寇ということで上陸を拒まれ、25日早朝種子島南端門倉岬に漂着したのです。船は、島の殿様・種子島時堯(ときたか)のはからいで、およそ50キロ北の城下の港に曳航されました。そして翌年1月まで、ポルトガル人、琉球人、中国人ら百数十名が港頭の慈遠寺の宿坊で生活し、このとき、パン、蒸しパン、樟脳、タバコ、中央支点式の鋏など、新しい文物が伝えられています。中でも日本の歴史を変える「鉄砲」もこのとき伝えられました。
▼14代島主・種子島時堯は、大金2000両でこの鉄砲2挺を買い求めました。そして、刀鍛冶の八板金兵衛に鉄砲を、篠川小四郎に火薬製法を学ばせた。鉄砲の国産化を目指したのです。ところが、金兵衛は銃身と銃把をつなぐ元栓のねじ止め部分の構造がわからず、ポルトガル人に尋ねました。ポルトガル人は娘の若狭(17歳)が嫁になれば教えると交換条件を出したのです。 金兵衛にとって国産鉄砲の完成は殿様の命でもあり悲願であったのですが、南蛮人に娘を渡すことは辛いことでもありました。 娘にとっても当時としては考えも及ばぬことで、父の仕事の完成との板ばさみで迷い苦しんだ挙句、意を決してポルトガル人の妻となったのです。
これで金兵衛は秘法を学び取ることができ、こうしてこの後日本の歴史を変える種子島銃が完成しました。瞬くうちに大阪の堺、滋賀の国友へと伝播し、大量に作られるようになったのです。鉄砲の出現によって戦の方法が一変し、全国は統一へと進み、長い戦国時代は終焉します。また、記録に残されている日本人と西洋人との結婚はこれが最初であり、若狭の結婚は国際結婚第1号ということになります。
▼台風の通り道のお陰で、種子島に難破・漂着した外国船は過去73隻を数えます。1885年、アメリカ船カシミヤ号難破船員12名を救助した事件は、米国民を感動させ、金メダルと5000ドルの大金が送られてきました。1894年イギリス船ドラム・エルタン号を救助したときには、記念に珍鳥「インギー鳥」(インギーとはイギリス人のこと)が贈られ、今でも南種子町で絶やすことなく飼育されています。
歴史と科学の島
966年、ロケット打上げのための宇宙センターが建設されることとなります。
ロケットの打ち上げ時は、それ目当てで全国から観光客もたくさんやってきます。種子島は最大の宇宙開発基地で、「宇宙に一番近い島」と呼ばれています。その昔、鉄砲が伝来して世の中を変えた種子島は、今日では宇宙にロケットが飛び立ち、日本の歴史を変えている未来と歴史が共存する自然豊かな唯一無二の島なのです。